90周年から91年目へ(第2回)

昨年、弊社はありがたくも90周年を迎えた。

今まで3回に渡り創業時のストーリーをお話ししてきたが、締めくくりとして1987年に社名変更し、株式会社アンゼン・パックスになってから今日までをお話ししたい。今回はその2回目である。

株式会社アンゼン・パックスになったときは総合パッケージメーカーへと脱皮を図ったのであるが、バブル期も重なり、その後業績は次第に悪化していくこととなった。しかしながら、この時のデザイン制作の経験が今に生かされることとなる大事な一面も存在し、加山又造画伯とのコラボレーションとなった赤坂青野さんのデザインリニューアルが成功したことは前回お伝えした。

しかしデザイン制作に偏りすぎた結果、赤字経営となり、しばらくは苦難の日々となったこともお伝えした。

まさに1992年12月に現社長である小生が入社したときは最も厳しい環境下にあり、どうすれば利益が出るのさえ、当時はよくわからなかったのが現状である。

それは、デザインが決まり製作したパッケージを一度納入した後の回転率の低さ、つまりリピート製造が来ないことからくる収益の悪化であった。

一方で菓子用のパッケージといえば、いまは無くなってしまったが、クラタさんという会社が東京ではパイオニアとして知られ、圧倒的な存在感を放っていた。

そして80年代の菓子パッケージは今では考えられないような利益率で顧客へ納入をしており、バブル期とも相まって「菓子も儲かる商材。そのパッケージも高くて当然」という空気があった。よく売れていた菓子店は高い包装資材などにあまり違和感を感じていなかったのである。

クラタさんしかり弊社然り。前述のような環境でその後おそらくどんぶり勘定が常態化し在庫回転率も悪くなっていったのは自明の理である。

しかし資金を貸す金融機関がどんどん融資を続けていたので会社は存在した。

弊社ではそんな時に会社を支えてくれたアイテムが、創業依頼の羊羹パッケージとルミアカップであった。

粗利益というより在庫回転率がものすごく良いからである。

クラタさんも早くに分社された倉田包装(クラパック)さんは当時既製品を中心とした堅実な経営で、びくともしなかった事実もある。

弊社はデザインリニューアル(当時はCIと言っていた)をクラタさんをベンチマークに。

製品作り、在庫管理を倉田包装さんをベンチマークに考えるようになった。

その後菓子パッケージ市場は、多くの業者が特に地方都市から進出され、その後ネット通販などもあり現在にもつながる厳しい市場環境に置かれることとなる。

ただクライアントである菓子店様の環境変化も同様に厳しさを増すことになる。

百貨店ギフト市場、歳暮中元といった市場はピーク時の1/4まで減少し、土産市場も大手寡占となっていく。

小生が入社した90年代初頭に全国で40,000社以上あると言われた菓子店は、倒産、廃業が相次ぎ現在では12,000社ほどと聞く。

当然菓子業界を取り巻く納入業社も厳しくなっていったことには変わりがない。

国内経済の変化とともに双方の業界が荒波に揉まれ、第一紙行さんなどという菓子パッケージではー時代を築いた会社も退陣することとなっていった。

次回に続く。

代表取締役 尾関 勇